R 熊本・長崎・鹿児島の旅2014vol.6【2日目】田原坂・熊本城・加藤神社

Rico

2014年03月15日 02:45



『Rico's Room2』へ、ようこそ♪

2014年3月1日
公益財団法人 荘内南洲会主催の研修旅行『明治維新の先賢に学ぶ旅』【2日目】

九州自動車道をバスで北上し、鹿児島県から熊本県入りすると、バスガイドさんから、「サービスエリアでトイレ休憩したら、『熊本名物/いきなり団子』をぜひ買って食べてみてください」と言われました。

初めて耳にした『いきなり団子』というネーミングにそそられて、売り場へ行ってみました。





この写真の「みたらし団子」のPOPが邪魔なのですが、『いきなり団子』とは、串にささっている団子ではなく、饅頭のような大きさと形をしていました。
蒸気が吹き出している蒸篭で蒸し上げたばかりのあたたかい『いきなり団子』を販売していました。





こちらは、サンプルなのですが、このようにいろんな種類が販売されていました。
私は、スタンダードな白い『いきなり団子』を購入してみました。
小麦を練ったもので包まれている中には、サツマイモとあんこが入っているというシンプルな組み合わせの団子でした。
このシンプルな素材が、ベストミックス!!!
素朴な蒸かしイモとあんこともっちりとした皮の美味しさにハマりました!
お土産に買いたいほどだったのですが、「本日中にお召し上がり下さい」ということで、断念しました。
やはり、蒸かしたてのあったかくてほわほわした美味しさが、この『いきなり団子』の魅力なんですよね!

『いきなり団子』とは、その名のごとく、いきなり訪問したお客様に何かお出しするものはないかといった時に、サツマイモに小麦粉を練った皮を包んで蒸かしておもてなしをしたのがはじまりなのだそうです。最初は、小麦粉は塩だけで練ったものだったそうですが、今では、あんこを入れて熊本名物として知られるようになったそうです。
もっとたくさん食べたかったけれど・・・三時のおやつを食べ過ぎると、夜の宴会のお料理を食べられなくなるので、我慢しました!
『いきなり団子』をもっとたくさん食べたかったなぁ〜!本当に美味しかったです♡


九州自動車道を北上する途中で、「五木の子守唄」で知られる『五木村』を通過しました。写真を撮りたかったのですが、私の座席の反対側の車窓であったため、撮影することができなくて、残念でした。
バスガイドさんから、昔の『五木村』の過酷な暮らしぶりのお話しをお聞きし、「五木の子守唄」を歌っていただきました。
「振り米(ごめ)」といって、竹筒にわずかの米を入れて、死期が迫った人に「これが米の音だよ」と音だけを聞かせたのだそうです。
「おしん」の実家も、貧しい小作の家庭でしたが、おしんのおばあちゃんが最期を迎える時には、白がゆを炊いて、人生最後の贅沢だと食べさせるシーンがありました。しかし、『五木村』では、その最期に食べさせるお米すらない貧困した土地だったということで、「振り米(ごめ)」の音だけを聞かせたのだそうです。
以前、「竹田の子守唄」をライブでやったことがありましたが、歌詞の内容は、「五木の子守唄」とほぼ同じだったので驚きました。
今では、身分の差があった時代のことを知らない世代の方が多数ですが、「五木の子守唄」などで、そういう時代があったことを思い出すことは大切なことだと感じました。
また、「竹田の子守唄」をライブでやってみようかしら?





熊本県熊本市植木町にある『田原坂(たばるざか)資料館』へ到着しました。
まず、目に飛び込んできたのが、こちらの『弾痕の家』です。
この家は、田原坂の頂上にあったものを移築したものとのこと。
600万発もの砲弾が飛び交ったという国内最大で、西南戦争最大の激戦地となった『田原坂の戦い』を象徴する建物ですね。





『西南戦争戦没者慰霊之碑』には、官軍と薩軍両方の戦没者の名前が刻まれていました。





『田原坂の戦い』は、1877年3月4日〜3月20までの17日間の戦いをいいます。この戦いで薩軍は多くの精鋭を失い、以後敗走を続けました。西南戦争中最大の激戦地であり、勝敗を決する戦いでした。
この戦いで、荘内藩士/伴 兼之は戦死してしまいます。享年20歳でした。
一緒に戦った荘内藩士/榊原政治は、後の5月10日、延岡の薩軍病院で亡くなりました。享年18歳でした。





『田原坂公園』のこちらの美少年の像は、薩軍、村田新八の息子さんがモデルとされています。
海外留学をしたエリート美少年であったそうですが、この『田原坂の戦い』で、命を落としました。


雨は降る降る じんばは濡れる
越すに越されぬ 田原坂


右手に血刀 左手に手綱
馬上ゆたかな 美少年


山にしかばね 川に血流る
肥薩の天地 秋さびし






この写真の先が『田原坂』です。
加藤清正公が造りあげた『人工坂』で、ここで、薩軍は、官軍を阻止するための激闘を繰り広げたのですが・・・
薩軍の兵器は、官軍に比べて旧式であったため、雨が続き、劣勢に追い込まれたと言われています。
また、薩軍は袴姿だったということで、雨に濡れると袴は重くなり、身動きにも影響したそうです。
「雨さえ降らなければ!」薩軍が優勢のまま進んだかもしれない戦いだったと言われています。





西郷先生は、この西南戦争では、一切指揮をしませんでした。
「武士の世を終わらせるために、あえて指揮をされなかったのだろう」と私は、感じています。








『空中かちあい弾』が展示してありました。
激戦地だったことを象徴するものだと思います。

実際に『田原坂』へ足を運んだことで、この西南戦争が、今日の日本にどんな影響を与えたかということを学ぶことができました。




資料館の中に、焼失前の熊本城の写真を発見しました。
西南戦争で、一部の建物を残して、天守を含む御殿など主要な建物を焼失しています。

熊本城は、中世に千葉城、隈本城が築かれ、安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて『加藤清正公』がこれに取り込み、現在のような熊本城を築いております。
江戸時代、熊本藩の歴史の大半を占めたのは細川氏でありましたが、西南戦争で天守が焼失する様を地元の人は「清正公(せいしょこ)さんの城が燃えている…」と悲しんだと言われます。
西南戦争の際、官軍の守る熊本城を攻め落とすことができなかった西郷先生は、「おいどんは官軍に負けたとじゃなか。加藤清正公に負けたとでごわす」と言ったといわれています。





そして、いよいよ日本三大名城『熊本城』へやってきました!
雨の上に、夕方5時ということで、薄暗い雰囲気の中での見学となりました。
逆に、他の観光客で混んでいなくて、よかったのかもしれません。





「清正流(せいしょうりゅう)」と呼ばれる石垣の上に御殿、大小天守、五階櫓などが詰め込んだように建てられ、一大名の城としては「日本一」であるとの評価があります。

実際にこの石垣のスケールを見て、「ねずみ返し」ならぬ「武者返し」と言われていることがよく分かりました!
刀を携えて、この石垣をよじのぼれませんってばっ!
しかも、上から石を落とせるようになっているし・・・

この石垣は、3分の2の高さしか見えていないのだそうです。
あとの3分の1は、地中に埋まっているとのこと。
重機の無かった時代に、一体どうやって築いたのでしょうか?
『加藤清正公』の鉄壁の城造りには感動しました!





私が想像していたスケール以上のお城でした!
写真ではわかりませんね!
実際に『熊本城』へ行けてよかったと思いますが・・・私は、『熊本城』となりの『加藤神社』へ行きたかったため、天守閣へ登るのは断念しました。
ツアーの限られた時間内では仕方がありません。





『熊本城』の敷地にはたくさんの銀杏が植えられています。
それは、兵糧に備えて、実のなる木を清正公が植えさせたのだそうです。
ちなみにこの写真左の銀杏の樹ですが・・・




ここは築城当時本丸御殿の庭があった場所で、この銀杏の古木は、加藤清正が築城を記念してお手植えになったと伝えられています。清正が亡くなるときに、この銀杏の樹が天守閣と同じ高さになったときに何か異変が起こるであろうと予言し、それは奇しくも、明治10年の西南戦争の時であったと言われています。西南戦争の際、天守閣や本丸御殿と共に、この樹も焼失しましたが、幸いにも焼け残った根元からでた脇芽が成長し今ではこのように大きく茂っています。熊本城は別名「銀杏城」とも呼ばれ、毎年晩秋には黄金色に色づいた銀杏の葉と黒と白の天守閣との素晴しい色合いは訪れる人の目を喜ばせています。





顔ハメ看板を発見!
バスガイドさんから、記念写真をパチリと撮っていただきました!
天守閣が欠けてしまって、残念〜!

「加藤清正公になりきった顔にしたよ!」とRicoママ。あまりのハマリ過ぎに、写真を見たとたんに吹き出してしまいました!

「私の方は、宮本武蔵なんだけど、なんだか変だよの!?」と、よくよく写真を見てみたら、「あ〜!加藤清正公の足元に、宮本武蔵の頭の部分がおぢっだ〜!!!」というとんでもないオチがありました!(爆笑)

「なんだか、珍道中っぽい記念写真でいあんねがの!」ってことで(笑)





ここでも、『熊本名物/いきなり団子』を発見!
『くまモン』かわいい〜♪
熊本では、『くまモン』グッズだらけでしたよ!





『熊本城』の隣にある『加藤神社』はこちらです。






『加藤清正公』が祀られている神社です。
ここに参拝してから、地元庄内にある『加藤清正公墓所』へ参拝したいと思っていたので、念願の一つが叶って嬉しいです。

これだけ素晴しい『熊本城』と『田原坂』を築かれた『加藤清正公』の『加藤神社』には、土木業関係の方々が多く参拝され、業績を伸ばしていらっしゃるというお話しをバスガイドさんからお聞きしました。

土木業関係のみなさま、『熊本城』へ行かれた際には、『加藤神社』への参拝をお忘れなく〜!






『加藤神社』境内にあるこちらの銀杏の樹も、『清正公お手植えの樹』ということです。
この樹から発せられるパワーがすごかったです!
銀杏の樹のイメージが変わりました!





こちらの見過ごしてしまいそうになった松の木は、加藤清正の嫡子が配流の地・山形県鶴岡市『丸岡城跡』から眺望される金峰山の松を移植したものだそうです。
ここにも、我が庄内とのつながりを発見することができて嬉しく思いました。





改めて『熊本城』を眺めてみると、『加藤清正公』の素晴しさを感じました。
ここを攻め落とせなかった薩摩軍の気持ちがわかりました。

あたたかくなったら、鶴岡市にある『加藤清正公』の墓所に足を運んでみたいと思います。
なぜ、『加藤清正公』の墓所が鶴岡市にあるのか?という詳細レポを楽しみにしていて下さいね♪


PM2.5の影響で、お城が、ぼんやりと霞んでいました。阿蘇山を眺めることもできませんでした。
しかし、この雨が、PM2.5を洗い落としてくれた恵みの雨となりました。





2日目に宿泊したホテルは、城下町熊本で、明治21年創業の『丸小ホテル』という歴史のある旅館でした。




『からしレンコン』が美味しかった〜!




お刺身も新鮮で、美味しかったですよ!




牛肉も柔らかかった〜♡




炊き込みご飯のお米が、珍しい形をしていましたが、しっかりと味がついていて美味しかったです。




牛すきもありました。やっぱり、おやつの「いきなり団子」を1個でやめていてよかったです!
お腹がいっぱいでした〜!


お部屋は、4人部屋で、私達母娘といな子さん、そして、田原坂からこのツアーに参加された北九州市小倉の古川さんと一緒になりました。
古川さんとは、昨年も沖永良部島と沖縄を御一緒させていただいたので、再会できたことがとても嬉しかったです。
歴史好きの古川さんが、このツアーの下調べにご尽力下さっているおかげで、充実した内容で、楽しい旅を満喫させていただいております。
楽しませていただけるということは、誰かが大変な思いをして下さるおかげなんですよね!
だからこそ、私は、御礼の気持ちを込めて、旅レポを頑張らせていただいております!

古川さんの職場のみなさんも、北九州市から、このブログをご覧頂いていることを知り、ますます頑張らなければ!と励ましをいただきました。

「古川さんの職場のみなさまへ、
いつも当ブログをご覧いただきまして、誠にありがとうございます。
庄内弁は難しいかもしれませんが、これからも、どうぞよろしくお願い申し上げますm(_ _)m」


小倉の古川さんと石巻のいな子さんの間にも、ビックリするような共通点があり、4人部屋もまたいいものだなぁ〜と楽しい会話で盛り上がりました♡

さあ、明日からは、いよいよ旅の3日目のレポとなります!



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