『Rico's Room2』へ、ようこそ♪
2018年9月29日(土)10:00〜
酒田市資料館にて開催中の『幕末酒田の異才/本間郡兵衛』の資料館調査員による展示解説に、Ricoママと二人で参加させていただきました。
こちらの写真は、館長さんの許可をいただいて、ブログに掲載させていただいております。
本間家分家出身の本間郡兵衛は、イケメンで頭がよく、弁が立ち、若い頃から、女性にモテモテだったそうです。
江戸に出て、葛飾北斎の弟子となり、
『本間北曜』という雅号で、美人画をはじめ、ペリー来航の際には、実際に浦賀に出向き、『黒船図』をスケッチして描きました。初来航時の黒船を実際に見ながら、緻密に絵を描いたのは、本間郡兵衛ただ一人と言われています。絵も素晴らしければ、書も素晴らしい方でした。他にも、竹陽斎友親(ちくようさいともちか)から彫刻も学んでいます。
清河八郎、ジョン万次郎、榎本武揚らとも交流があり、
勝海舟に誘われて、長崎にて、オランダ語を学び、やがて、フルベッキ夫妻から英語を学び、通訳としても活躍。
文久2年(1862年)にはパリ、ロンドン、ロシア、ニューヨークといった欧米各国と清国を約5ヶ月も外遊したと伝えられるも、名前を偽って洋行したらしく、資料が残されていないそうです。
郡兵衛は、帰国後、グラバーの推薦で、鹿児島開成所で英語教師も務めたそうです。この頃、西郷隆盛らとも交流があったそうです。
このままでは、日本は外国資本に負けてしまうということを感じ、鹿児島にて、家老小松帯刀の支持を背景に石河確太郎らと設立した日本初の株式会社草案の「薩州商社発端(郡兵衛直筆)」を残しました。
郡兵衛は、「薩州商社」の東北・北海道エリアを任され、本間家に出資を求めに酒田に帰ってきました。しかし、この時、戊辰戦争直前という緊迫した状況であったため、郡兵衛は、「薩摩のスパイ」としての疑いをかけられ、荘内藩により約一年近く幽閉されてしまいます。
慶応4年(1868年)7月19日、郡兵衛を診察するために来た荘内藩医が置いていった薬を服用したところ急死。病死とも、毒殺とも言われています。享年47歳。墓所は酒田市の浄福寺。
明治維新の2ヶ月前に亡くなったことが、悔やまれてなりません!
もう少し長生きをしてもらえたら、酒田は、「薩州商社」の東北支社として、繁栄していたのではないでしょうか?
こうして、本間郡兵衛のことをざっと書いただけでも、超多才であったことがわかると思います。
展示品の中には、鹿児島で郡兵衛が愛用していた『月琴』という楽器が展示されていました。
『月琴』という楽器を初めて知りました。
郡兵衛が描いた地球儀の繊細さも素晴らしかったし、フルベッキ夫妻から預かったものなどを記録した台帳などを見ると、金銭面もきちんと記録をして、信頼される人物だったことが伺えました。
こちらの肖像写真は、郡兵衛が40歳頃にロンドンで撮影したらしいと言われているものです。
当時の40歳で、これだけ品性のあるお顔立ちなわけですから、イケメンとして有名だったのも納得です。
葛飾北斎の弟子となり、彫刻も作り、書も達筆。
オランダ語も英語もペラペラ。
パリ、ロンドン、ロシア、ニューヨーク、清国へも行った(らしい)し、『月琴』まで弾ける♪
幕末で活躍したたくさんの人物と交流があり、信頼もされていた。
日本初の株式会社を設立しようとしていた。
しかも、独身。
そりゃ、女性にモテますって!
調査員さんからの解説をお聞きして、私は、本間郡兵衛LOVEになりましたもの♡
「歴史上の人物で、一番好きな人は、誰ですか?」と聞かれたら、迷わず、『酒田出身の本間郡兵衛です!』と答えます!
今日は、本間新四郎家11代当主の医師本間利美さんも、お越しになられていました。
どこかで聞いたことのある声だと思っていたら・・・本間耳鼻科の先生だったので驚きました。
本間郡兵衛を紹介する展示は、これが初めてだそうです。
今まで、存在は知っていたけれど、これだけの資料が展示されているとは、感動でした!
本間先生に、心より感謝を申し上げます。
そして、酒田市資料館の調査員さんは、本当によく学び、まとめて、上手に解説してくださったと思います。
素晴らしい展示ですので、一人でも多くの方に足を運んでいただけたらと願っております。
入館料100円に、びっくりです!
本間郡兵衛、半端ないって!!!
こんなにかっこいい偉人が酒田にいたことを誇りに思います。
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