2015年03月24日

R<四国・九州研修旅行レポ5>西郷隆盛宿陣跡資料館/児玉熊四郎宅(宮崎県延岡市)



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2015年2月26日〜3月1日の公益財団法人 荘内南洲会主催研修旅行『明治維新の先賢に学ぶ』旅

<3日目>2015年2月28日(土)
いよいよ、荘内南洲会主催の研修旅行でなければなかなか行くことができないであろうマニアックなスポットへお邪魔させていただきました。

『西郷隆盛宿陣跡資料館』(児玉熊四郎宅)
宮崎県延岡市北川町長井




簡単に説明すれば、西南戦争で、薩軍は多くの戦死者を出し退却。西郷先生は、この児玉熊四郎宅に、宿陣し、軍議を開らき、残存の薩軍に『解散令』を発しました。つまり、国内最大規模の西南戦争がここで終わったということになります。
西郷先生は、若者たちには、政府軍に降伏するように促されたそうです。





西郷先生に宿を提供された児玉熊四郎さんのお孫さんにあたる児玉館長が、私達を出迎えて下さいました。
児玉館長さんは、幼い頃から、おじいさまから、西郷先生のお話しを聞いたということで、確信に迫る貴重なお話しを私達にして下さいました。










児玉館長のお話しの中で、一番心に残ったのが、『西郷南洲翁辞世の七言絶句』です。

肥水豊山路巳窮(ひすいほうざんみちすでにきわまる)
墓田帰去覇図空(ぼんでんかえりゆかんはとむなし)
半生功罪両般跡(はんせいのこうざいりょうはんのあと)
地底何顔対象公(ちていでなんのかんばせあってしょうこうにたいせん)

解釈>肥後や豊後への道もすでに窮まった。(自分の計略はすべて失敗に終わってしまった。戦いをやめ)骨を埋めるために故山をめざそう。維新の理想現実も今はもはや空しい。半生を振り返ると、功罪二通りの跡を残してしまった。泉下で一体どんな顔をして、斉彬公にお会いすることだろうか。


児玉館長さん曰く、西郷先生は、たくさんの若き命を西南戦争で散らしてしまった自分は、武士としての名誉ある『切腹』をする資格はないと判断したそうです。最期は、城山で自害し、介錯を別府晋介に頼んだと言われていますが、そうではなかったと教えて下さいました。
最期は、自害ではなく、自ら処刑という制裁を受けるという形で、首をはねさせたというお話しでした。別府晋介も、その西郷先生の思いを理解していただろうということでした。
城山で、大腿部と腹部に被弾した西郷先生は、自刃する体力はなかったとのこと。実際に遺体には自害した傷は見当たらなかったということで、児玉館長さんのお話しは、リアリティを感じ、そして、とても西郷先生らしい考え方だと思いました。


それから、バスガイドさんからの新情報で、明治政府が、西郷隆盛暗殺の密令を出していたということが噂ではなく、事実であったということがはっきりとわかる内容の手紙が近年、発見されたということでした。
これは、大きな発見ですね!





資料館には、西南戦争に関する資料が展示されていました。





「ニニギノミコト御陵参考地」がこの資料館の裏にあるということで、こんな案内看板がありました。






『解散令』後、西郷先生は、鹿児島(城山)へ帰るために、『可愛嶽=可愛岳(えのだけ)』突破を試みました。
周囲は、政府軍に囲まれていたため、可愛岳を突破するしか道はなかったのかもしれません。






これが、『可愛嶽=可愛岳(えのだけ)』です!標高728mを越え、三田井へ向いました。
この山を夜中に越えるとは、とても想像することが出来ませんでした!
「皆で、鹿児島へ生きて帰るぞ!」という執念を感じずにはいられませんでした。





『西郷隆盛宿陣跡資料館』を後にして、『都城南洲神社』へバスで移動しました。
途中、『高鍋IC』看板を発見しました!
バスガイドさんが、「この宮崎県高鍋町が、上杉鷹山公はこの秋月藩の出身です!」と教えてくれました。
「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」で有名な上杉鷹山公は九州の出だとは聞いていましたが、実際にその地を通りかかることができて、とても嬉しかったです。
旅とは、いろんな発見があって面白いものですね!






旅行へ行ってから時間が経ったためか、Ricoママと会話をしていると、延岡市も都城市も一緒になっているような話ぶりなので、地図で整理したいと思います。山形県も、遊佐と米沢では全くちがうように、延岡市と都城市はこんなに離れているんですよ!Ricoママにはしっかりとおさらいをしてもらいます!
旅行は、行く事も大事だけれど、復習も大事だと思います。実際に足を運んでから同じ資料を読むと書かれてある資料の意味がよくわかるようになります。百聞は一見に如かずという感じですね。

このブログの下の『続きを読む』に、荘内南洲会からいただいた資料を転載させていただきました。もっと詳しく知りたい方は『続きを読む』をクリックしてご覧下さいませ。


<今日の短歌>
武士道 ちりゆく美学 値なし
 自ら処刑 嘆願悲し


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『西郷隆盛宿陣跡資料館』児玉熊四郎宅(宮崎県延岡市)

西南戦争明治10年(1877)2月〜9月
池田芳宏氏の「西南戦争時の宮崎と西郷隆盛」より抜粋
薩軍の将桐野利秋が5月18日、宮崎に駐屯して以来、住民は「西郷札」などの軍資金調達や武器弾薬の製造、食糧徴用に追われた。
6月には小林、7月に都城、日南、8月は宮崎、延岡が戦場となり、両軍の戦死傷者の病院の設置を急がされ、田畑は荒らされ、家屋が焼かれたりして損害は甚大となった。
8月15日 昨夜の笹首軍議で薩軍(3000名)は、政府軍(海陸30000)と決戦することになった。
西郷は、払暁北川を船で下り差木野に上陸し、和田越に陣した。南方2kmの樫山には政府軍の指揮官山県有朋の本陣が望めた。
濃霧が晴れて両軍は激突した。西郷は陣頭指揮で味方を鼓舞した。戦闘は武器弾薬の優劣、さらに衆寡敵せず、薩軍は重久雄七ら多くの戦死者を出し、長井村俵野に退却した。
西郷は俵野の児玉熊四郎宅に宿陣し、本営とした。

8月16日 同陣。

薩軍本営の児玉熊四郎宅は当時の姿を伝え遺品や軍議のモデルを置き「西郷隆盛宿陣跡資料館」として貴重な情報発信地となっている。
西郷は、この日残存の薩軍に解散令を発した。
我が軍の窮迫、此処に至る。今日の事、唯一死を奮って決戦するにあるのみ。この際、諸隊にして降らんとする者は降り死せんとする者は死し、主の卒となり、卒の主となる。唯、其の欲するところに任せよ。」(西南記伝)

8月17日 可愛岳(えのだけ)突破
政府軍に包囲された薩軍本営では、軍議を重ね、可愛岳(標高728m)を越え、三田井へ向かうことに決した。
この間、西郷は愛犬を放ち、従僕永田熊吉に陸軍大将服や重要書類を焼却させた。
また、本営近所の児玉惣四郎宅で療養していた一子菊次郎を村田二蔵らと共に政府軍に降伏させるよう熊吉に指示した。
他に、成就寺など野戦病院の負傷兵は医師山口盛高らに治療と残留を依頼した。
その夜十時、政府軍の篝火を四方に見ながら薩軍は三隊に分かれて可愛岳を目指し、夜を徹して行軍した。
退却にあたり、声高な雑談や喫煙はしない、先発隊は目印を置くなど軍律は確固としていた。
翌未明には辺見・河野の前軍が登頂に成功した。暫くして、全軍揃ったので政府軍を急襲した。


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