2019年03月01日
R 抹茶を点てて思い出した『千利休の喚鐘(かんしょう)』(羽黒の宿坊/三山大愛教会)のこと。

『Rico's Room2』へ、ようこそ♪


早いもので、3月になりました。
2月も、おかげさまでいろいろなことがありました。
気がつけば、しばらく抹茶を点てていませんでした。
抹茶を点てて一服。
私にとっては、大切な時間です。
そういえば、先月、羽黒の宿坊『長圓坊・長傅坊/三山大愛教会』さんへお伺いした際に拝見させていただいた『千利休の喚鐘(かんしょう)』のことを思い出しました。

こちらが、お伺いした時に撮影させていただいた『千利休の喚鐘(かんしょう)』の写真です。
千利休が、茶事の際に、中立して腰かけている客を迎える合図として、この『喚鐘(かんしょう)』を用いたと言われています。
この鐘の表に「天正十二年甲申(きのえさる)十月茶日」と記載されています。
千利休は、時の天下人・豊臣秀吉の命により切腹させられました。天正十九年・70歳の生涯でした。
その後、利休の息子・千少庵が、利休の死後、蒲生氏郷(会津若松城主・利休七哲)に預かりの身となります。この『喚鐘(かんしょう)』を少庵が持参したと思われています。文禄三年に赦免・帰京、秀吉の目に止まることを恐れ、会津若松に残したのではないかと伝えられています。
その後、『喚鐘(かんしょう)』は、古物商の手に渡り、羽黒の宿坊『長圓坊・長傅坊/三山大愛教会』へ寄贈されたのだそうです。
昭和62年に、一ノ瀬宗辰先生(高岡金工師)を迎え調査し、日本で製造したことはほぼ間違いないという結果でした。

『龍頭(りゅうず)』(鐘身を懸垂するために上部に付けられる部分)のアップ写真です。
手ブレしてしまいましたが、『ひょうたん』2つのデザインになっています!
当時、豊臣秀吉=天下人の象徴となる『ひょうたん』を用いた『喚鐘(かんしょう)』を作れる人は、利休以外にいなかったと思います。
確かに、赦免された千少庵が、これを京へ持ち帰るのは、さすがに「これはまずい」と思ったに違いありません。
羽黒山山頂で、30年間開催された『羽黒山奉納茶筌供養祭』では、この『喚鐘(かんしょう)』を用いて、千利休を供養されました。
最後の『羽黒山奉納茶筌供養祭』2014年6月15日のブログはこちらです。
http://rico.n-da.jp/e525202.html

『長圓坊・長傅坊/三山大愛教会』さんには、千利休の掛け軸もありました。
羽黒山で千利休の喚鐘に出会えるとは、なんとも不思議なことだと思います。
そして、ご縁あって、拝見させていただけたことをありがたいと思いました。
千利休が茶の道を広げてくれたおかげで、今日の『抹茶ブーム』があります。
抹茶をおいしくいただきながら、利休の時代を懐古してみるのも、いいものですね。
435年前に作られた『千利休の喚鐘』を拝見させていただいたことをブログに記録しておきたいと思いましたので、先月の出来事でしたが、記載させていただきました。
また羽黒山へ行く機会があったら、『長圓坊・長傅坊/三山大愛教会』の神林千祥様にお会いしたいと願っています。
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